SSブログ

「思考の整理学」戸山滋比古著 [本]

p18
それに比べると今の学校は、教える側が積極的でありすぎる。親切でありすぎる。何が何でも教えてしまおうとする。それが見えているだけに、学習者は、ただじっとして口さえあけていれば、ほしいものを口へ運んでもらえるといった依存心を育てる。学校が熱心になればなるほど、また、知識を与えるのに有能であればあるほど、学習者を受身にする。本当の教育には失敗するという皮肉なことになる。

しかし、漢文の素読では、意味を教えないのが普通で、だからこそ、素読というわけである。いくらこどもでも、ことばである以上どういうことか、意味が気にならないわけがない。しかし、教えてもらえないものだから、しかたがない。我慢する。その間に、早く意味もわかるようになりたいと思う心がつのる。教えないことが、かえっていい教育になっているのである

p22
人間はいつからこんなに行性をつよめたのであろうか。もちろん昼間働くのが常態であるが、こと、知的活動になると、夜と決めてしまう。燈火親しむの候、などということばは電灯などのない昔から、読書は夜するものという考えがあったことを示している。

考えることと、考えることとは、同じ人間でも、かなり違っているのではないか、ということを何年か前に気づいた。

p24
の仕事が自然なのである。朝飯前の仕事こそ、本道をいくもので、夜、灯をつけてする仕事は自然に逆らっているのである。

p27
だとすると、寝て疲れをとったあと、腹になにも入っていない、のうちが最高の時間であることは容易に理解される。いかにして、朝飯前の時間を長くするか。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0